ママ友いじめから知った人生で大切なこと
私の体験が少しの希望になることを願って
小学1年

53.悪口は先に言ったら勝ち?友達を信じて疑わないのが友情?

 

このご近所のママさん達、もしくはこの学区のママさん達、というべきかな。

その方々をみていて思う。

 

どうしてそんな簡単に人の悪口を信じるんだろうって。

 

確かに「相談なんだけど」「困ってるんだけど」と言われたら、最初は悪口に聞こえないと思う。

しかも「峰岸さんに言わないでね、後で絶対揉めちゃうから。」とか付け加えれば、秘密保持もできるだろう。

 

でもね、事実確認もしないままに相手に悪意を持つのはどうなの?って思う。

私はただの一度も、事実確認をされたことがない。

「こんなことあった?」って聞いてくれる人はいない。

 

「きっと、言われるだけの事をしてるんだよ。」って、そう思うのかもしれない。

「何もしてなければ、こんな風に言われないよね?」って、そう思うのかもしれない。

 

だけど考えてみて。

その理屈が通ってしまったら、先に悪口言った人の勝ちじゃない?

 

「何もなければ言われないはず」を逆手にとって。

何もなくても、言ってしまえば。

それだけで。

何かあったように、問題があるかのようにとられるよね。

 

足を引っ張ってやろうとか、ムカつくからとか、困らせてやりたいとか、そんな理由で悪口を言う人がいるのに。

 

私のなかの常識では「悪口を言う人は信用されない」だった。

ネガティブで後ろ向き、簡単に人のせいにする輩からは人が離れていった。

 

だけど。

だけどこの地域は違う。

 

悪口を言う人は信用される。

そして、悪口を言わない人はどんどん立場が悪くなる。

 

言われたことを鵜呑みにして、自分で判断することを放棄して、悪口や噂を信じて。

ターゲットにされている人を避け、嫌悪し、非難する。

それが当たり前の地域だった。

 

私の常識が覆される、カオスなママ友世界。

この地域で生きていくためには、私も悪口を言うべきだろうか。

三津屋さんよりも先に。

先に悪口を言って、自分の味方をつくるべきだろうか。

 

そんな風に考えたくなるほど。

この地域には、悪口を言う人が信用される風潮があった。

 

悪口を鵜呑みにさせる方法

私には大学時代からの友人がいる。

お互いに子育て中なので滅多に会えないけど。

 

彼女は隣の市に住んでいるので、この地域について、ここで起こっていることについて、相談したことがある。

隣の市なので、彼女に話しても三津屋さんやご近所に影響しないだろう。

この地域の状態が正常なのか、当たり前なのか、それを聞いてみたい。

という理由で。

 

「どうして悪口を言う人が信用されるのかな?」

純粋な疑問だったのでそう聞いてみた。

 

すると彼女はこう言った。

「それは。あれだな。『友達だから』なんじゃない?」

 

そうなの?

ほぇー?

そういうことなの?

親しい間柄だから信用する

友達だから。

友達の言うことは信用する。

そういうわけね?

 

確かに。

「顔見知りの人」と「普段仲良くしてる人」では、言葉の受け止め方が違う。

 

仲良くしていて親近感を感じていれば、その言葉は素直に心に入ってくる。

でもそうじゃない相手なら、話や言葉を受け入れる前に精査するだろう。

 

三津屋さんは共感性が高いから、相手の懐に入るのがうまい。

「え、そうなの?わたしもぉ~」

「わぁ、すごい!○○さんのこと尊敬しちゃう~」

などなど。

 

そうやって相手との距離を縮める。

私に対してもそうだった。

 

感覚的に言えば、急激に距離を詰められた感じだった。

 

私達は気が合う→私達は友達→私達は仲良し

このステップを踏んで。

仲の良い友人と思わせられれば、悪口でさえもすんなり受け入れてもらえる、ということなんだね。

親しい間柄なんだから、その言葉を疑ったりしない。

そういうことなんだね。

教えてくれたと勘違いさせる

それに加えてもうひとつ。

仲の良い友人同士だから、という前提があれば。

 

「悩んでるの」「困ってるの」はものすごい破壊力があるよね。

自分に悩みを打ち明けてくれた。

自分のことをそこまで信用してくれてるんだ。

そう思っちゃうよね。

 

こんなに信用して打ち明けてくれたんだから、私も同じくらい信用する。

だから話を鵜呑みにするよ。

そういうことかな。

 

ママ友同士のお役立ち情報的な感じで、こんな言い方もできるね。

「峰岸さんね、ああみえて実は性格が悪くてやばい人なの。自分の子に甘いけど人の子はどうでもいいって思ってるみたいで。私、隣に住んでて桃亜が目の敵にされてて、本当に大変なの。○○さんも気を付けてね。」

 

やばいママや面倒なママと関わって後々嫌な思いをしないように、予め情報を共有するね。

という体裁なら、これもすんなり受け止められるだろう。

 

「わざわざ教えてくれたんだ。」そう思わせる事ができれば、悪口だって簡単に鵜呑みにさせられるってわけだね。

 

薄っぺらな友人関係

悪口を鵜呑みにしてしまうのは、仲の良い友人だから。

友達を信じてるから、その言葉は真実だと思う。

友達だから、私に教えてくれたんだと好意的に受け止める。

その理屈はよーくわかった。

 

だがしかし。

そもそも友達ってなんなの、ってところを考えてみたい。

 

よくお喋りをする。

一緒にいて心地よい。

楽しい。

気が合う。

ふんふん、それから?

ママ友ってどういう「友達」?

そもそも「ママ友」は子ども絡みで知り合った間柄。

子どもを通したお付き合いだから。

子ども同士が仲良しなら、親同士も接近するし。

子ども同士が疎遠なら、親同士も疎遠になる。

 

またその逆パターンで。

親同士の仲が良いから、子ども同士も仲良くなる。

親同士がいがみ合ってるから、子ども同士も険悪ってのもあるよね。

 

どっちにしても。

子どもを含めたお付き合いになるのが、ママ友。

子育てが終わって、それでも変わらず付き合えるママ友ってどれくらいいるんだろうか。

 

ママ友は子どもを含めたお付き合いをする相手。

だから、お互いのために適度な距離感が必要だと思う。

お互いに踏み込みすぎないことが思いやりだと思う。

 

なぜなら。

親同士の関係が子どもに影響を及ぼす場合があるから。

子ども同士の関係次第で、この先どうなるかわからない相手だから。

 

だから「距離感を保ったお付き合い」が基本的なマナーかなと思う。

 

それに、子どもを介して繋がったわけだから。

そもそも相手をよく知らない。

よく知りもしないのに、親近感を持ったから「友達」だと思って信用してしまうのは危険じゃないかな。

 

距離感を保ったお付き合いしながら、ゆっくりと相手を知る。

それで信頼できると思えるなら、自然とお付き合いは続くだろう。

もし子ども同士が疎遠になっても、自然とお付き合いは続くだろう。

 

「ママ友」といえば聞こえはいいけど、実際はただの知り合いくらいがちょうどいい。

「ママ友」というお付き合いの中に「友達」を求めて過ぎていないだろうか。

「友達」を求めて慌てすぎていないだろうか。

 

ゆっくりじっくり相手を知る。

時間をかけて相手を知ることが、本当の意味で「ママ友」になるために必要なのかもしれない。

信じるだけが友情ではない

仲が良くて、話が合って、居心地がいい。

仲の良いママ友はそんな相手。

 

でもよく考えて欲しい。

いま見えてるのは良い部分だけだよね。

そのママ友の良くない部分も知ってる?

良くない部分も知ってて付き合ってる?

 

相手の良くない所すら知らなくて、それで友達かな?

相手の上っ面しか知らなくて、それで友達かな?

相手の良くない所を知ったら、ひどい何それ騙されたって思うのかな?

 

「ママ友」って言いながら、それくらい相手のことを知らないんじゃない?

「ママ友」って言いながら、それくらい薄っぺらい間柄なんじゃない?

 

それなのに。

「友達だから」と相手の言う事を信じてしまうの?

 

信じる、疑わない。

それはとても綺麗で純粋で素晴らしい心のようにみえる。

だけど。

信じる、疑わないのなかには、「自分で考える事を放棄した」も入ってない?

 

やみくもに信じるのが友情かな?

信じて肩を持つのが友情かな?

 

本当に友達なら。

話を聞いた後に胸の中が重くなるような、もやっとした気持ちになるような事を言ってこないよね。

言ったとしても、「あ、ちょっと愚痴ちゃった。ごめん」とか。

後味が悪くないように、深刻にならないように切り上げるよね。

 

私の嫌いな人をあなたも嫌いになってね、なんて。

そんな風に仕向けないはずだよね。

 

悪口を悪口に聞こえないように言ってみたり、あなたのためにって変換してみたり。

そんなテクニックを使って、あなたを惑わせたりしないよね。

 

友達だと言うのなら。

あなたの事を思いやってくれてるかどうか。

そしてあなたに接するのと同じように、周りの人も傷つけないように思いやっているかどうか。

 

そこを見るべきなんじゃないかな。

 

「私の嫌いな人をあなたも嫌って欲しい」

もしそれを感じたら、離れた方が良い。

そんなの友達じゃない。

ただの迷惑な人だから。

 

私は末路を知っている

気に入らないから、ムカついたから。

そういう感情から、「足を引っ張ってやろう」「嫌な思いをさせてやろう」と考える人がいる。

 

そして相手にダメージを与える事を目的として、悪口を言う。

悪口に聞こえないようにしたり、信じやすいようにテクニックを駆使したりもする。

 

そうやって、人の心に悪意を植え付けていく。

 

悪意を植え付けられた人は、それに踊らされてしまう。

悪意を植え付けられた人は、簡単に利用されてしまう。

 

「友達」「仲良し」という心地よい響きに紛れ込ませて、悪意を植え付けるのは。

もはや友達でもないし仲良しでもない。

 

ただの「道具」だ。

自分の憂さを晴らすための「道具」だと、そう思われていることに気が付いて欲しい。

いじめの行きつく先

三津屋さんのいじめは5年目に突入している。

三津屋さんの悪口に踊らされて。

三津屋さんの言い分だけを信用する人が増えた。

 

わたしに向けられる悪意。

それは私だけでなく、娘のひらりにも向けられはじめている。

 

つらくて、苦しくて、悔しい。

憎くて、腹が立って、悲しい。

 

だけど私はそれほど思いつめない。

それほど慌てたりもしない。

 

私は幼い頃いじめにあっていた。

そこで多くの事を知り、多くの事を学んだ。

だからそこまで動じる必要がないと知っている。

 

そんなにいじめがやりたいなら、やってみれば?と思う。

そんなことやっちゃって、大丈夫?とも思う。

 

なぜなら。

私はいじめをやった人間の末路を知っているから。

そしてどうなったらいじめが終わるのかも知っているから。