私がなにか悪い事をしたのだろうか?
私がクラスのみんなの事を考えず、愚かな行為に走っただろうか?
私がクラスのママさん全員に失礼な事をしたのだろうか?
私がいけない事をしたから。
いけない事をしたから、年長のママ達から仲間外れにされたの?
いけない事をしたから、年長のママ達は私から目を逸らすの?
喧嘩両成敗って言葉があるけど。
これって喧嘩なの?
いじめは喧嘩なのかな?
イジメられる方にも問題があるってよく言うけど。
問題があったらイジメられても仕方ないの?
問題があるのは、本当に私だけなの?
正直にいえば。
私は悪い事をした覚えはない。
飲み会の件は。
伝えるべきことは伝え、ちゃんと相談したはず。
山辺さんの事も、クラスのママ達の事も考えた。
三津屋さんに桃亜ちゃんの暴力を告げたとき。
三津屋さんは何かあったら教えて欲しいと言っていた。
私はお互いのこれからを思って、進言したことだった。
だけど、その行いはどちらも「いじめ」に発展した。
私に問題があった?
私に間違いがあったからこうなったの?
YESという人もいれば、NOという人もいるだろう。
でも。
でもさ。
気が付いたんだけど、そこが大事なところなの?
自分が悪いか、悪くないか、そこは考えても答えがでない部分じゃない?
人によって答えは違ってくるよね。
悪い事をしたから・・・。
それなら、いじめは罰なの?
そんな罰を下す権限、誰にあるっていうの?
それよりも。
大事なところを忘れてるよね。
私達、人間なんだし。
いじめを選択する前にできることって、たくさんあったはずだ。
それなのにいじめをやる側は、それをしない。
あなたが悪いからこうなった、そう吹聴する。
だから「いじめ」になってる。
そこが。
そここそが、一番の問題なんじゃないかな?
いじめの原因は相手の心の内にある
いじめにあって辛いのは。
無視、悪口、仲間外れ、どれも本当に辛い。
誰も自分の声に耳を傾けてくれない現実。
人の悪口を言って楽しそうに盛り上がっている姿。
仲間から外されて自分がどう思われているかを突き付けられる。
だけどもっと辛いのは。
その状態を招いたのは「自分」かもしれないと思うこと。
自分が悪いから。
自分が人に嫌われる人間だから、だからなのか。
自分がダメ人間だから、こうなってしまったのか。
そう考えることが一番しんどかった。
生きる気力を根こそぎ奪われて、死んでしまいたくなる。
こんな自分、いない方が良いのかも?
そんな思いに苛まれたら、二度と立ち上がれないくらい。
いじめにあって落ち込んでるとき、夫からでた言葉。
「お前の性格が悪いからだろ。」
「嫌われて当然だよ。」
「まともな人間になれ。」
そう言われた時。
どん底から更にどん底へ落ちた気がした。
このままだと死んじゃうと思った。
だけどね。
私はこんなことで、死んでたまるかって思ったの。
・・・よく考えて。
おかしいじゃない。
性格が悪い?
落ち込んでる妻に平気であんな言葉を言える、夫の方が性格悪いじゃん。
嫌われて当然?
夫よ、私もあなたを嫌いだと思ったぞ。
まともな人間になれ?
お前がまともになってから言え!
悪い所があるのは皆同じ
そうなのよ。
これが真実だと思ったの。
あれだけ偉そうな事を言った夫。
その夫だって十分嫌な奴だし、人として如何なものか、じゃない?
私を更にどん底に突き落としてくれた夫は。
思いやりがないという悪いところがあった。
んで。
じゃあ、いじめられるかっていうと、そんなことない。
三津屋さんはお姑さんの悪口を言ってるし、子どもを放置してお喋りに興じている。
それだって悪いじゃない?
んで。
じゃあ、いじめられるかっていうと、そんなことない。
ほうほう。
なるほど。
そういう事なのよね、結局。
この世に完璧な人間なんていない。
誰にだって悪い所、間違えてるところ、ダメなところがある。
あなたが悪いのよ。
あなたが悪いからこうなったの。
そう言われても結局。
悪い所があるのは皆一緒です。
私にも、あなたにも、あなたにも、あなたにも、あります。
それが真っ当な事実だと思う。
攻撃欲求がある人の矛盾
悪い所があるのはみんな同じなんだ、むしろ悪い所がない人間なんていない。
その事実に気が付けば。
悪い所があるから、ダメなところがあるから、いじめにあっている。
なんてものは。
それはただの目くらましで、まやかしだって分かったよね。
いじめを正当化するための、ただの言い訳だ。
悪い所、ダメなところがあったって、それを責めない人間はいくらでもいる。
それをスルーしてくれる人も、包み込んでくれる人もいるんだから。
じゃあ、なんで私はいじめにあっているのかと言えば。
誰かを攻撃したい人の餌食になった。
誰かを攻撃して心を充足させたい人に見つかってしまった。
誰かを攻撃して自分を正当化したい人に利用されてしまった。
そんなところじゃないかな。
誰かを責めれば。
自分は分かってる人間だ、自分は見えている人間だ、だから自分は人として上だ。
そんな気がするじゃない?
誰かを責めれば。
悪いのは相手であって、自分ではない。
自分は正しい事をしているんだ!
そんな気持ちに酔えるじゃない?
そこで言わせてほしい。
あなた矛盾してますよ、って。
無視も悪口も仲間外れも。
どれも悪いことじゃないですか。
いじめをやってる側、あなたの方こそ悪い事してるじゃないですか。
それなのに、お前が悪い、お前が間違えてるからだ、と人を責めるの?
結局はこんなもんなんだと思う。
いじめなんて、おかしなことだらけ。
この世の中はなかなかにクレイジー(笑)
生きているのが空しくなる時もあるほど。
だけど、このクレイジーさを通して見つけることができる。
真実の姿を。
自分はどう生きるかを。
見つけることができる。
自分の心の中になにがあるのか、相手の心の中になにがあるのか。
自分の心に、人を責めたい・攻撃したい・陥れたい、という悪意の火種はありましたか?
じゃあ、いじめをする人の心に火種はありますか?
悪意の火種が心にある以上、誰かが被害に遭い続ける。
いじめは、いじめる側の心の内に原因があると。
その事実をまずは知るべきだ。
いじめを選択するのが間違い
私たちは人間だから、知性があって言葉もある。
感じること、考えることができる。
より良い明日のために知恵を絞ってきたよね。
だから。
無視、悪口、仲間外れ。
いじめをやる、その前にできる事ってたくさんあったと思うの。
「峰岸さん、私。桃亜の暴力の話を聞いて驚いたし、指摘されてショックだったの。」
もし三津屋さんがそう言ってくれたら。
お互いに知恵を出し合って、桃亜ちゃんの暴力について対策をたてられたかもしれない。
そうすることで理解が深まり、より良い関係にできたかもしれない。
「峰岸さん、飲み会は私達に任せてくれない?」
もし山辺さんがそう言ってくれたら。
是非お願いしますと答えたし、お互い気持ちよく親睦会ができただろう。
百歩譲って。
いじめをせず「峰岸さんイヤだな。」でとどめたならば。
周囲を巻き込んで、変な空気をまき散らすことはなかった。
嫌なら、私からそっと離れてもよかった。
逆にもっと話し合ってもよかった。
気持ちを打ち明けてもよかった。
私に質問を投げかけてもよかった。
そう。
いじめをやる前に取るべき選択肢は無数にあったのだ。
だって私たちは人間だから。
最悪の選択肢
だけど。
実際はそうではなかった。
いきなり、突然。
無視、悪口、仲間外れ。
私の存在は消され、抹殺された。
それはいじめがはじまったから。
心がどんどん疲弊して傷ついていく。
悲しみと怒りで揉みくちゃになる。
何故なら。
それは相手がそう望んだから。
理解しあおう、良い関係にしよう、そう思ったのではない。
傷つけてやりたい、悲しませたい、ひどい目に遭わせてやりたい。
そんな姿をこの目でみて、スカッとしたい。
いじめをはじめた人は、それを望んだのだ。
それを望むような人なのだ。
いじめは人間関係において最悪の選択肢だ。
人を傷つけ、周りを巻き込み、混乱や恐怖といった負の感情を溢れさせる。
だけどその状況こそが、いじめをはじめた「心に悪意の火種がある人」の、望んだものなのだ。
周りを巻き込もうとも、混乱させようとも、傷つけようとも、そんなもの一向に構わない。
自分の心が満たされればそれでいい。
いじめを選択したというのは、それくらい身勝手なことだ。
だからいじめにあったらこう思えばいい。
「いじめを選んだ時点で、あなたは間違えましたよ。」と。
私はそう思った。
そう思う事で、自分の中に整理がついた気がした。
凛として、顔をあげて。
前を向いて歩いて行けると思った。
突然暴力をふるってお前が悪いと言う人
いじめは実際。
暴力を伴う場合もあるけど、女性の場合は得てして心を踏みにじる場合が多い。
無視、悪口、仲間外れという態度を通して。
あなたとは関わりたくない。
あなたは必要ない。
あなたの存在が迷惑。
言葉にしなくても態度でそれを伝えて、心を傷つけて抉ってくる。
傷ついて痛いのは精神で、目に見えないから。
周りにはこの痛みが伝わらない。
いじめは心に暴力を受けてるのと一緒。
それなのに「お前がわるい」と吹聴されているのだ。
この状況を目に見える形に置き換えるなら。
「突然暴力をふるわれてるのに、お前が悪いと責められている」と表現できるだろう。
こういう目に見える形になれば。
周りの人は「おかしなことをしている」と容易に判断できるし、暴力をふるった人を非難するだろう。
だけど目に見えない「心」の話になると。
不思議なことに周りの人は「おかしなことをしている」人の肩をもつ。
なんで?
なんでなんだろう?
想像しないから加担する
暴力をふるっているのを目にしたら。
その光景に肝が冷えるだろう。
恐怖を感じるし、暴力を振るわれた人の痛みも想像できる。
だから暴力をふるった人に良い感情は抱かないし、ましてや暴力を振るわれて仕方がないなんて言わない。
どんな理由にせよ、暴力はいけないことだと誰もが思うはずだ。
それが「いじめ」になると。
こころに暴力を振るわれていても、それは続けられる。
それどころか、暴力を振るわれるお前が悪いとさえ言われてしまう。
どちらも痛いのに、この違いはなにか。
それは目で見られるかどうか、じゃないかな。
傷やあざなら目に見えるから、痛みや恐怖を想像できる。
暴力を振るう様がみんなの目に見えてるから、言い逃れができない。
だけど、心の傷は。
目で見ることができないから、どれくらい痛いのか想像しない。
心を傷つけても、みんなの目に見えてないから。
「知りません。そんなつもりはなかった。」って、いくらでも言い逃れができる。
痛みを想像しないから、想像できないから。
人は平気でいじめに協力する。
あいつが悪いと言う言葉を平気で鵜呑みにする。
それで。
痛みは想像できないけど、なんだか嫌な目にあってるのは分かってる。
だから余計に、自分だけは被害にあわないよう動くのだろう。
いじめに加担するのは「いきなり暴力をふるってお前が悪いという人」を受け入れているのと同じだ。
あなたはそんな人と一緒にいて、安心して過ごせるの?
そんな人にすり寄って幸せになれるの?
これが目に見える暴力なら、誰も近づかないのに!
心の痛みを想像できないなら、せめてもう少し考えて欲しい。
悪口を鵜呑みにしていいのか。
この人が言ってることは本当か。
この人の本当の狙いはなにか。
大人になっても、子どもの親になっても。
平気でいじめが行われているのが現実。
いじめは「いじめた人」「いじめられた人」だけの問題じゃない。
「いじめに加担した人」にも大いに問題がある。
それが目に見えない心への暴力であっても。
突然暴力をふるってお前が悪いと言う人に、NOと言えるようにならなければいけない。