ママ友いじめから知った人生で大切なこと
私の体験が少しの希望になることを願って
回想

64.いじめをやれる心理とは。自分を高めず目を背けてる怠け者

 

物心ついた頃から小学6年生まで、自分を取り巻く環境の一部として色々な人間をみてきた。

心温まる素晴らしい出会いもあったけど、なんだこれ!?な出会いもたくさんあった。

 

偏見・いじめ・差別。

それはまだ幼い子供だった私にも容赦なく降り注いだ。

 

なんでこんなことを?

どうしてそんなことできるの?

 

ただ単純に。

みんなで仲良くすればいいのにって。

そのほうが皆、楽しいし幸せなのにって。

 

そう思うけど。

 

世の中には不思議なことに、人間関係に上下を作りたがったり、優位に立ちたがったり、支配したがったりする人がいる。

その気持ちはどこからくるんだろう?

 

自分が。

自分だけは幸せになりたいから?

自分だけは特別な存在だと思いたいから?

自分だけは安心していたいから?

 

いじめのシャワーを浴びながら。

どうして周りの子達がいじめに興じるのか。

どうしてそこまでいじめに興じてしまうのか。

私なりに考えていた。

 

単純に「こども」だから

まず思ったのは、やっぱり。

まだ「こども」だから。

 

単純に幼いから、物事についてよく吟味せず「なんとなく」で行動してしまう。

幼いがゆえに考えが及ばず、人を傷つけるとは思い及ばない。

 

そういうことかな?

 

だけど、どうだろう。

私はいじめをやっている子達が、訳も分からずやっているようには見えなかった。

 

むしろ。

どうやったらより苦しめられるか。

どうやったらより傷つけられるか。

どうやったらより追い詰めることができるか。

それをわかっていて、狙ってやっていたように思う。

 

だから、相手の気持ちがわからなかったはずはないだろう。

もしわからなかったと言うなら、それはしらじらしい言い訳だ。

わからなかったのなら、ここまで陰湿に徹底的に組織的にはやらないもの。

 

でも。

それとは違った幼さ。

人として成熟していない、という意味での「幼さ」はあったかもしれない。

快・不快と善悪

赤ちゃんの場合は、泣いて主張する。

今の状態が「快」ならばにこにこ。

今の状態が「不快」なら泣く。

 

赤ちゃんにとって、快は喜ばしいもので、不快は取り除くべきもの。

 

これに近いかなと思う。

 

自分をほめてくれた。

自分に気を遣ってくれた。

自分を楽しませてくれた。

 

自分を気持ちよくさせてくれた、「快」の感情を与えた人や出来事は「善」。

 

自分をイライラさせた。

自分を悲しくさせた。

自分に劣等感を感じさせた。

 

自分を嫌な気持ちにさせた、「不快」の感情を与えた人や出来事は「悪」。

 

「快・不快」という自分の感じかたで物事を判断していた場合。

これを人間関係に当てはめると。

「快」ならば仲良しになり、「不快」ならば排除する、になる。

 

なぜならその人にとって。

「快」こそが善で、「不快」は悪だから。

 

私に快を感じさせてくれる人間は、いい人。

だって一緒にいて気持ちいいからいい人。

 

この私を不快にさせた人間は、悪いやつだから排除。

悪い奴だからイジメてよし。

悪い奴だから輪から外すべきだ。

悪い奴だから人として認めない。

 

人として成熟していない。

快・不快で善悪が決まってしまう。

そういう幼さなら、あったかなと思う。

 

ただ。

この「快・不快」で物事を判断されてしまうと、困ったこともたくさんでてくる。

 

例えば「ご飯を食べる時はちゃんと座って食べましょう。」と注意された。

(なにそれ。私は私の好きに食べたいんだけど。そんな事言われて不愉快なんですけど。)

と思って、不快なのでその意見は自分にとって「悪」だから聞き入れずに排除した。

 

結果。

その子は人前では食事がさせられない、お行儀の悪い子になってしまう。

そのことで損をするのは本人だ。

 

ためを思って進言したことでも、快・不快で判断されてしまえば。

本人が望まないことは全て不快で悪で排除されてしまう。

これでは成長できない。

 

自分の感情を基準に生きてしまっては、自分のためにならないし、成長できないのだ。

 

快はいつでも必ず「善」ではないし。

不快は必ずしも「悪」ではないのだ。

 

人間関係も同様で。

不快のなかにも学ぶべきところがあり、自分に必要な部分がある。

それを知らないと子どものまま大人になってしまうし、後々困ることになるだろう。

親の真似事

クラスの女子の顔を見ていて、何度か思ったことがある。

悪口を言ったり、人に悪意を向けているときの顔は。

まだ若くてお肌もつやつやプルプルで、生き生きしているはずなのに。

 

中年のオバサンみたいな顔になる。

 

本当に不思議だった。

普段は可愛いのに、悪意に染まってこちらへ向けられた顔は。

子どもには見えないほど歪んでいた。

 

この年頃の子どもにとって「親」は神のようなものだと思う。

無条件で大好きだし。

無条件で信じているし。

無条件で受け入れてしまう。

 

親が好きなものは子どもも好きだと思いがちだし。

親が嫌いなものは子どもも嫌いだと思いがち。

 

子供は親の背中をみて育つ。

親の行動や考え方を学んでいるのだ。

 

そして尚且つ、自分の親が人として良くない事をしているとは全く思っていない。

大好きだから、だからなんでも見習いたいと思ってしまう。

 

だからかな?

だから教室で悪口や噂話に興じている女子の顔が、オバサンに見えるのは。

 

愚痴や悪口が当たり前のご家庭では、子どももやはり愚痴悪口を言うだろう。

人を蔑むのが当たり前のご家庭では、やはり蔑むことを覚えるだろう。

 

全てが家庭のせいとは言わない。

だけど少なからず影響は受けているはずだ。

 

悪口や噂話に混ざり盛り上がる。

人に悪意を向ける。

人を見下す。

 

それが親の真似事なら。

善悪や相手の気持ちはすっ飛ばして。

自分がちょっと大人に近づいたような。

そんな気分にすらなれるのかもしれない。

 

そういう意味での「幼さ」「こども」っぽさが。

あの小学校の教室にはあったかもしれない。

 

実は不幸だから

母子家庭だからといじめられていた時。

再婚家庭だからと避けられた時。

普通のご家庭に暮らすあなた方が、なぜそこまで私を嫌うのかと疑問に思った。

 

満たされている人は、人を差別したり蔑んだりはしないものだ。

満たされているから、そんなことする必要がない。

 

ならば。

私をいじめてきた子達は。

普通といわれるご家庭に暮らしながらも、満たされないのだろうか?

 

飢えることのない、安定した生活を送り。

毎日お風呂に入れる、清潔な生活を送り。

両親が揃った家庭で、穏やかな生活を送り。

 

私にはないものをたくさん得ているはずなのに。

それなのに満たされていないと。

そういうことなのだろうか?

心が満たされていない

私を「母子家庭」だからといじめていた、ひでこちゃん。

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ひでこちゃんのお姉さんは優秀で。

勉強もできたし人望もあつかった。

 

ひでこちゃんはもしかしたら、そんなお姉さんにコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

ひでこちゃんとお姉さんとの激しい口論も何度か目撃していたし。

お姉さんにきつく言われて、泣いているひでこちゃんを見たこともある。

 

お家の中でも、ひでこちゃんとお姉さんは比較されていたかもしれないし。

お姉さんには頭が上がらなくて悔しい思いをしていたのかもしれない。

 

思い返してみると。

ひでこちゃんはいつも子分を引き連れて、自分の力を誇示してるようにもみえた。

 

ひでこちゃんは。

ひでこちゃんらしくいることに自信がもてず、そういう意味では心が満たされなかったかもしれない。

 

友人のふりをしながら、最後までこっそり嘘の噂を流していたカワちゃん。

63.正体不明の犯人。陰で噂を流し続けた友達のコンプレックス 6年生の半ば頃になると。 これまで試行錯誤してきたいじめ対策が少しずつ功を奏してきたのか、それとも女子たちが飽きてきたのか...

 

カワちゃんは、意を決して桑野君に告白するも断られてしまった。

さすがにまだ小学生だったし、男子もまだ恋愛にはそこまで興味がなかっただろうし。

そもそもうまくいく可能性は低かったと思われる。

 

カワちゃんは立派なお家に住み、大きな犬を飼っていて、傍からみても裕福そうな家の子だった。

たまに分けてくれたおやつは、どこそこの有名店のなんちゃらっていうお菓子だったり。

服も、よく知らないけど有名だというお高いブランドのものを着ていた。

 

わたしから見たらすっごく恵まれているし、満たされているように思えるけど。

 

それでもカワちゃんは。

桑野君の件でコンプレックスを感じ、自分の魅力について自信を失ってしまったのかもしれない。

そういう意味では、カワちゃんも心が満たされていなかったと言える。

 

素敵な暮らしをしていても。

両親揃った穏やかな家庭でも。

お友達に囲まれて楽しそうにしていても。

本人の心が満たされていない場合が、そこかしこにあるようだ。

いじめて気を紛らわす

きっと私という存在はちょうど良かったんだろうと思う。

いじめるための口実がわかりやすかった。

いじめるための切り口がたくさんあった。

 

父親がいない社会的弱者だったり。

再婚で複雑な家庭だったりした。

母も異様に若く、私も色味が薄い子で、きっと思ってた以上に目立っていたんだろう。

 

だから。

そこを突く正当性も分かりやすかったし、そこを突けば皆も同意しやすかった。

 

立場が弱かったから。

いじめても大丈夫だと。

いじめても問題にならないだろうと。

そう思われたんだろう。

 

いじめをすると、まるで自分が強くなったように思えるし。

まるで自分が正しい人間のように思えるし。

まるで自分がすぐれているように思えるし。

 

一瞬ではあっても、心が満たされるんだと思う。

だけどそれは実態を伴わないから、ほんの一瞬で過ぎ去る。

だからまた、心を満たしたくていじめを繰り返す。

 

自分の心を埋めたくて。

そんなの、ただ気持ちを紛らわしているだけの行為だ。

 

それならば。

満たされないものがたくさんある私は、一体どうしたらいいのか。

いじめをしなければ満たされないのなら、いじめていじめていじめまくらなきゃいけないよね。

 

でも私はいじめはしない。

誰かをいじめたって満たされないし、幸せなんか感じられないから。

 

そこで思う。

 

いじめをやる子達は「不幸」なんだなって。

 

どんなに環境が整っていても。

人から愛されているようにみえても。

 

自分の幸せに気がつけない。

自分の幸せに目が向かない。

 

足りないものばかりに気を取られている。

足りないものばかりに夢中になってしまう。

 

いじめに興じる人たちは、そういう不幸を持っている。

自分の幸せを感じられないという、不幸のなかにいるんだと私は思った。

 

人と比べているから

人間関係のなかに上下をつけたいと思ったり、自分が優位に立ちたいと思うのは。

きっと人と自分を比較してるからじゃないかなと思う。

 

人と比べているから、自分が上でありたいと思うし。

人と比べているから、自分が優位でいたいと思うし。

人と比べているから、自分の価値を知らしめたいと思うし。

 

また。

人と比べているから、自分が下だとか、劣っているとか、価値がないとか、思ってしまう。

 

その感情が全て悪いわけではない。

そこを原動力にして、自分を高めようとすることができる。

自分を良くするエネルギーに変えることができる。

 

自分を高めるためには。

強い意志の力も必要だし。

それなりに時間がかかるかもしれない。

 

でもちゃんと自分を高める事ができれば。

真の実力を付けることで揺るぎない自信を獲得できるし、もっとやってみようという活力にもつながる。

その経験が自分の宝になっていく。

 

ただ。

人は気がついてしまった。

そんな努力をしなくても。

 

もっと簡単に。

もっとお手軽に。

自分の劣等感や、無力感から、容易に抜け出せる方法があることを。

誰かをうらやましいと思う

わかりやすい例でいけば「嫉妬」。

人と比べてしまうから、誰かをうらやましいと思う。

 

うらやましいと思って。

そこでどうするか。

 

うらやましいなら、自分もそうなれるよう工夫する。

自分もそうなれるよう、考えてみる。

自分もそうなれるよう、もっと自分について知る。

 

そっちに進めばいいんだけど。

 

実際は。

うらやましくてムカつくから足を引っ張ってやろう。

あいつだけいい思いしてるんだから、嫌な目にあわせてやろう。

私がこんな思いをしてるのは、あいつのせい。

 

嫉妬の感情に火がつき、いじめになる。

噂を流し、悪口を言い、仲間から外し、無視をする。

 

そして。

ああいい気味だと、私の方が優れているのよ、と。

そこで感じてしまう。

 

こうやってお手軽に。

一時の悦楽を簡単に得る術を覚えて、繰り返してしまうのだ。

 

ただそれは、自分の実力にはならない。

ただの幻を味わって、そんな気がしているだけだ。

 

だからいつまで経っても。

自分の求める場所にたどり着かない。

自分の求めるものを手に入れる事ができない。

自分が本当の意味で満たされることはない。

人から奪うものだという考え方

人と比べてしまうと。

誰かが持っているものをうらやましいと思ったり、欲しいと思ったりする。

そして誰かが持っているその「素敵なもの」は、自分にはないと感じる。

 

自分にはない。

自分にはないのだから。

 

だから。

誰かから奪えばいいという発想になってしまう。

誰かを利用して得ればいいという発想になってしまう。

 

人から奪えば。

人を使えば。

 

簡単に手に入る。

簡単に自分の力を感じられる。

簡単に自分を満たすことができる。

 

それがいじめだよね。

 

この世の中は。

欲しい感情は「人から」得るものだという感覚が染みついているように思う。

 

自分の安心のために人を利用したり。

欲しいからと人からものを盗んでも。

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人を差別して自分の優位を味わえても。

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そんなものは一時でしかない。

そんなもので自分を満たせるのは一瞬でしかない。

 

 

あの子のように私も。

称賛を得たい。

認められたい。

必要とされたい。

 

本当にそう思うなら。

自分を磨いて、伸ばして、高めるべきだ。

その感情は自分に還元するべきだ。

 

それなのに、人から奪おう。

人を使って得ようとしてしまう。

 

人と比べたところに幸せはない。

人をどうこうして自分が幸せになれることはない。

 

自分が欲しい感情を。

誰かから奪ってやろうとか、壊してやろうとか、利用してやろうという考えでは、心が満たされることはない。

そこで得られる充足感や万能感は一過性のものだからだ。

 

いじめに興じる人たちは、そこをもっと意識したほうがいい。

 

本当に自分が満たされて幸せになるための方法を「知らない」のかもしれないけど。

本当に自分が満たされて幸せになるための努力を「放棄している」ようにもみえる。

 

自分の心を満たしたいのなら。

自分自身に目を向けるべきだ。

 

必要なものは自分の中にあって。

自分で試行錯誤し作っていく。

だからこそ実力がついて自信になる。

 

人をどうこうして得たものに力は宿らない。

 

自分自身から目を背けて。

自分自身を高めることを怠けて。

お手軽に簡単に手に入れようとしても、満たされることはないのだから。

お手軽に簡単に手に入れた先には、幸せはないのだから。